--------- August.15.2020 / Blog ----------
あの日、あの場所で。
日本が戦争をやめて、75年の月日が経ちました。
戦争経験者の多くの方が既に旅立たれています。
もう実体験を体験者からお話頂ける機会はあまりありません。
数年も前のお話ですが、家近くにある地域の憩いの場であるカフェに、
友人と出かけていた時の事です。
私たちの席のそばに、かなりご高齢のおじいさんがいらっしゃり、声を掛けられました。
「君はどこの国出身だい?」
その時、きっとオーストラリアと日本の間にあった戦争の事を言われるのだろうと覚悟していました。
というのも、ワーキングホリデーの時に、小さな田舎町で、
ご高齢のおばあさんに声を掛けられ、同じ質問をされ、
「私の家族は、私が幼い時にあなたたち日本人に殺されたんだ。許さない。
オーストラリアに日本人が平然といるなんて、どの面下げて、ここにいるんだ。」
と罵声を上げられた体験があったからです。
私は、その時おばあさんのお話を聞くことしか、
その癒える事のない憎しみや悲しみに寄り添うしか、出来る事はありませんでした。
口が滑っても、戦争を知らない私には関係ない、そんな事言われても…とは言えませんでした。
辛い思いをされたのだと感じます。
そう思い返しながら、おじいさんに、私が日本人である事を伝え、私は今にも罵声を浴びるのではないかと肩を竦めていると、、
「おぉ、そうか!私は日本に行った事はないが、日本が好きだ。」
と笑顔で言われ、状況が読めていない私に、おじいさんは話を続けました。
”
第二次世界大戦下、私は若くして戦争に加わった。
戦場はソロモン諸島。
ある日に、私たちは小さな島に上陸し、日本軍と戦った。
しかし、途中嵐となり作戦は中止となり、仲間の船が拾ってくれるのを待った。
待てども待てども迎えの船はこない。夜になってもこなかった。
無理もない、私たちが降ろされた島は小さく、あの荒波では、船が着けるはずもなかった。
隠れる小屋さえもない場所だったから、
私たちは雨に打たれ、寒くて寒くてこのまま凍え死んでしまいそうだった。
雨が上がっても、濡れたままの私たちは互いに寄り添って温めあいながら、小さな火を囲んで夜を過ごしていたんだ。
すると、日本兵が近づいてきた。
こんな状況でさえ、日本人は殺しにくるのか、なんて野郎達だ!
と、隊みんなが冷え切った身体をもちあげながら、来るな!と声にもなっていないような声で叫び、銃をとろうとしていた。
正直怖くて震えていたよ。殺されると思った。あの状況では、確実に私たちが劣勢だったからね。
しかし、むこうさんから飛んできたのは、麻(?)で出来た掛物だった。何か言っていたが、なんて言っているか分からなかった。
使え、という事だったんだろう。
私たちは”敵”からの物を、身体に巻きつけた。
私たちの隊長は、”敵”に火を渡しにいけといった。
戦っていた時には気づかなかったんだ、日本兵達が私たちよりどんなに若い子たちだったか。
彼らはとても優しい顔をしていたよ。
何か私たちに言いながら、何度もお辞儀していた。
なんて言っていたのか理解出来れば良かったんだけど。
私は、日本人は人間ではない冷徹な悪魔だと聞いていた。
あの子たちから、そんな事は考えれなかった、とても無垢で無邪気な姿だった。
私は、その時から日本人へのイメージが一変したよ。
信じられるか、その後、私たちは、隊長のアイディアで日本兵を火のそばに呼び、
寄り添って寒さをしのぎながら過ごした。
隊の何人かは、会話にもなっていないやりとりをして、一緒に時間を過ごしていた。
”敵”が敵ではなくったと言うのも、可笑しいな。
仲間になったわけでもないし。まだ敵であるにも変わりないのだが…
でも、その時は、敵や味方という壁がなくって、同じ人間として生き延びるために、共にしのいでいた。というのが近いかな。
日本兵の若者たちは、食べる物も全く持っていなくて、私たちの缶を分けてやったよ。
彼らはとても痩せていて、食料が足りていないのは明らかだったよ。
よくあれで戦わせたものだ。
日本軍の上の腐ったやつたちが兵士を”捨て石”のように扱っていたのは、本当だったんだ。
火に映る彼らの顔に落ちる影が、とても悲しくて忘れられない。
あと、先輩は写真を見せながら、大きな仕草で家族の説明をしていて、可笑しかった。
朝になって、固い握手をして、その場を別れた。
私たちは、仲間の船を待って、出発した。
日本兵の彼たちの事は分からない。無事だといいのだけど。
そう、私たちはあの島で、彼らとはもう殺しあわなかったんだ。
”
「ありえない。」
私は、つい言葉が漏れてしまいました。
”
戦争を本や映画で客観的にしか知らない君たちからすれば、ありえないだろうな。
私たちだって、彼らの行為をありえないと思った。
でも、あの状況下で、あのような行為が出来るというのは、その人間の本質が見える。
その人が持つ本物の心、その人の本当の人間性が出てくる。
戦争下にいる者たちの心境は様々だ。私たちは、死にたくなかった。当たり前だ。
日本兵は死にたくてたまらないと思っていたが、彼らも本当は死にたくなったという事だ。
だからといって、その後も戦争は続いたし、あんな生易しい事はもう起こらなかった。
生き抜く為に日本人を殺さざる追えなかったんだ。私の仲間も殺されていったよ。
敵のはずなのに、泣きながら戦ったさ。でも、戦わなければ、オーストラリア本土にいる家族を守れなかったんだ。
それは、私たちだけではなく、日本兵や他の国の兵士達も同じことだと分かった。
私が殺した人たちの顔も覚えているよ。
あれは、現実だったんだ…
軍に入った当初は、殺してやるとか、国を守るとか威勢のいい事を言っていたが、
戦い続ける中で、生き抜く事だけを考えていたと思う。生き抜いて、帰る事だけを考えてた。
出来るだけ楽しい思い出に浸ったよ。
未来の事はあまり想像が出来なかった。
あまりにも多くの死を毎日見てたからかな。
本土に帰って、彼女をつくって、酒を飲んでとか、それくらい。国の未来がどうこうなんて考えなかった。
私たちは、戦争なんてしなくても、分かり合えるはずなんだ。本当は仲良くなれるんだ。
日本人とオーストラリア人と何も違いはないんだよ、
どちらも、大切な家族がいて、仲間がいて、誇りがあって。
一緒なんだよ。
もし、彼らと戦争ではない形で出逢っていたのなら、私たちは友達になれていたのかもしれない。
もっとお互いの文化とかを教えあえたり分かち合えたのではないかと思うと
「戦争」というものは無意味以上に、大切な全てを奪う行為でしかないと、悔しいというか、嫌悪の気持ちしかない。
あってはならない事だったんだ。それにすぐ各国が気づき止めるべきだった。
あの戦争は、起こるのを防げた戦いだった。
あの島での体験は、私の戦争に対する疑問を深く根付かせた。そして毎日自分に問うたよ。
私たちはどこに向かおうとしているのか。
何にしろ、あの島での出来事が起こったのは、それぞれの隊長が人間として腐っていなかったからこそでもあるだろう。
隊長がNOと言えば、NOだ。ただ殺すだけだ。
戦争は人の心を蝕む。人間が人間として理性を失う。
あの当時の”普通”なら、あの状況で敵を助けるような行為はしない。
嵐で体調崩して食料もない、放っておけばいずれ死ぬ。が”普通”だ。
上にばれたら、どちらも罰を受けていただろうし、日本兵は罰どころの話ではなかっただろう。
私も、戦後色々と調べたが、日本軍の上がすることは、人間とは思えない事だったようだからね。
大変な時代だった。生き抜くのに精一杯だった。
毎日沢山の死を見て、明日は我が身と思いながら生きていた。
毎日死が付きまとう中、生きるちからを保てたのは、隊の仲間の存在や、本土にいる家族の存在があったからだ。
今の若者たちには、言いたいことが山ほどある。
しかし、こうやって私は生かしてもらい、ひ孫を抱ける喜びを感じられる今を幸せだと感じる事が出来る。
”
他にも色々お話をして下さいました。
戦後の生活の事とか。
命と命の奪い合いが毎日どこかで行われていた時代を生き抜いてきたこの目の前にいる小さなおじいさんに敬意しかありません。
オーストラリア軍が加わったソロモン諸島付近での戦いといえば、ガダルカナル戦、そして続くニューギニア戦。
どちらも、多くの日本兵が餓死と病気で命を奪われた戦い。
おじいさんが日本兵に出会った時も、既に補給能力が限界に達していた時であり、食料の調達が難しく餓死する兵が相次ぐ中で行われた戦いという事です。
これらの戦いは、戦いで命を落とした方より、餓死で亡くなられた方の数の方が多く、
現在も祖国日本へ帰れず、ご遺体が遠く離れた南の島々に眠っていらっしゃいます。
生きて帰ることは望めず、死んでも帰れず。
ある少尉の日誌の記述が、アウステン山の守備についていた兵士たちの間で、広まっていたそうです。
『人間の限界』
立つことの出来る人間は、寿命30日。
身体を起こして座れる人間は、3週間。
寝たきり起きれない人間は、1週間。
寝たまま小便をするものは、3日間。
ものを言わなくなったものは、2日間。
まばたきしなくなったものは、明日。
島に取り残された多くの方たちの事を考えると、胸が苦しくなります。
祖国から遠く離れた土地で、果てしなく続く海を見ながら、何を思っていたのでしょうか。
戦地で最期まで任務を全うしようとした兵士さん達、
最愛の家族の幸せを願いながら犠牲となって旅立った将来があった若者たち、
各地における激しい空襲や、
広島、長崎での原子爆弾の投下により亡くなられた方々の悲しみの声、
また、世界中で戦争の犠牲になられた方々の多くの無念な声が、今も聞こえてきます。
戦後75年に思う事を、綴ろうかと思います。
では、また後ほど。